昨日とある区切りの日だった。
一年にわたり受けていたある茶道に関する講座の最終試験日だったのだ。
二時間半で実技と筆記があって、受ける日は自分で設定できるのだが、何度設定してもまだ受けてはいけないと思ってしまう。
正確にはまだ受けたくない。もっとできる自分でありたいんだろう。こんなもんじゃないと。
前日にお茶室を借りて一人自主練をした。
一点前目の途中で涙が出てきたけど何の涙かわからずゆっくりびっくりした。
多分嬉しかったのだ。
ずっとしたかったことを自分に許せていることが。自分が感じたいもののためにもっとできるはずだと信じて機会と時間をつくれていることが、それを受け取れていることが嬉しかったのだ。
1年半くらい片想いのようなすれ違いばかりでそのスイッチが入らなかった。
何度も同じことを繰り返す。いくらでもよくできる。きりがない。
代わりに足がパンパンになってほとんど手元も見えなくなってきて、気付けば7時間半経っていた。
そもそも前日にスイッチが入るんじゃ遅すぎるのだが、それでもこれまでスイッチが入り切った実感を持てきれなかった自分にとってはよろこびだった。
この講座に通底するテーマは、「自分の、自分による、自分のためのお茶」、そのための「恕」だった。論語にある孔子の言葉で思いやりの心とも訳されるが、恕す(ゆるす)という意をようやく得れたのかもしれない。
魂が本当に望んでいる方向へ進むことをゆるすこと、そのありのままの命のありようをみとめること。
明日筋肉痛だとどうしようと思いながら迎えた当日は晴れやかで楽しみとよろこび、ここまでのすべての巡り合わせと存在への感謝に満ちていた。
実技ではやっぱり緊張してお茶杓持つ手がプルプルして、自分という宇宙に点てるおおらかな安心感を意識しながら、このプルプルする”私”を大丈夫、となだめる”私”が稼働していた。
という意味ではお茶が点つころまで全く無私ではなかったが後半はいろんな私が統一されて消えているよろこびがあった。
続いての筆記試験はすべて自分の考えを書く筆記で、時間内に書きたいことの半分も書けずこんなはずじゃなかった無念のあまり、即追試希望したくらいだった。
そのあと先生が点てってくださったお茶とお菓子を味わいながら、今の等身大の自分を味わい受け止めていた。
課題は山積みながら清々しかった。
やっとこの講座を受ける準備ができた自分がいる気がした。
実際終わったのでそれじゃ遅いのだけれど、それでも嬉しかった。
ここからまた始まったのだ。
始められたことがとてもうれしいのだ。
ここに導いてくれたこれまでのすべてに合掌。
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